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マジックと愛車遍歴 2 (前編)

・ フォルクスワーゲン サンタナ (1984〜1986)

サンタナはフォルクスワーゲンの代表的な大衆車でしたが、一時期は日産
と提携して、日産座間工場で生産されていたので、正確には日産製という
ことになります。
中古ですが、初めてのマイカーなので、気分は高揚しました。
マジックの腕はまだまだでしたが、一丁前の営業マジシャンの顔をして、
県外のイベントにも出演するようになっていたので、車は必須でした。

この頃の記録映像を確認すると、カードマニピュレーション、ファイヤー
シンブル、ダンシングハンカチーフ、リンキングリング、クライマックス
には爛漫を演じています。
当時はイリュージョンは演じていなかったので、大きなステージで派手な
出し物をリクエストされた時や結婚披露宴では、特大の豪華な毛花を出し
ていました。(ノスタルジーを感じさせる毛花のマジックは好きでしたね)

コンスタントにオファーは続いて、それはそれで有り難いのですが、この
まま営業先の環境や客層に迎合して、コテコテの営業マジシャンとしての
活動のみを続けていくことにも疑問を感じていたし、一度は海外のコンテ
ストにも挑戦したいという野心はずっと持ち続けていたので、その後は
鳩やファイヤーを主軸にしたコンテスト用の手順作りに専念しました。

そして1985年、コンテストに挑戦するために初渡米しました。
セントルイスでのミッドウェストマジックジュビリーのステージコンテスト
において、幸いなことに優勝することができました。
この時の第2位は、白人ながら歌舞伎メイクで和妻を演じたケン・ターナー、
第3位は、後に小規模ながらラスベガスのホテルのショールームで、アフ
タヌーンショーのレギュラー出演の仕事を得た、鳩出しが得意な黒人マジ
シャンのマイク・ダグラスでした。
表彰式後のバックステージでの打ち上げで、日本人の私が燕尾服、西洋人
のケン・ターナーが和服という、あべこべのコントラストを、みんなが
ネタにしてウケていたのが思い出されます。
さらにミシガン州でのアボットコンベンションのゲスト出演をして帰国後、
簡単な宣材を作って芸能プロダクション数社に売り込んでみると、次々に
営業出演のオファーが舞い込むようになりました。
サンタナのトランクは道具でいっぱいになり、助手席にはアシスタント、
後席は、鳩の指定席になりつつありました。

九州各地のイベントから声がかかるようになり、自分の写真がポスター
になったりフライヤーに載った時は、とにかく嬉しくて、それらは今でも
大切に保存しています。
ある日、大分県の小さなスーパーのチラシを目にしました。
福岡岩田屋の紳士服コーナーで、40万円もかけてビスポークした燕尾服
を着て、鳩を手にしてカッコつけている自分の写真が、ピエロや特売品
の写真と並んで印刷されているのを見た時に、なんとなく心がざわつき、
芽生えつつあった小さなプライドが傷ついたことを覚えています。
アメリカで賞を獲って、その実績で決まった仕事が田舎のスーパーでの
イベント(打ち合わせでは、大きなショッピングセンターだったはず)、
そして写真は特売品と並列…さらに30分の2ステージが条件だったはず
なのに、フライヤーには40分の3ステージと印刷されていました。
騙された…これは完全に舐められている、口約束で済ませた自分にも
責任の一端はあるにしても、マジックをやれる機会があるだけでも嬉
しいというマニア心を利用されていることの確信もありました。
約束もいい加減で、ヤクザのような芸能プロダクションが跋扈している
時代でした。
しかし、マニア心を利用しようとするのは、悪徳芸能プロダクション
だけではありませんでした。

次回、後編へと続く…

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